消えた十二社川を探索 20210425
西新宿の中央公園の西側に存在したといわれる十二社池を前回探索した。
現在の西新宿小学校あたりに水源があり、十二社通り沿いに流れて神田川に注ぐ水路があったと考えられる。
今回はその流路を探索した。
1.熊野神社から現在の東電変電所敷地に沿って神田川に至る水路
1911年の陸地測量部地図には熊野神社から北に伸び神田川まで直線的につながる水路断片が記載されている。角筈のあたりにもその延長とみられる水路断片が記載され、両者は暗渠でつながっているものと考えられる。
直線的な形状から、人工的に作った水路であることが推定される。
*1 1911年
1935年の地図では神田川流路が真直ぐに変わり、十二社通が広くなって、上記水路が十二社通との交差点から先で曲線となり、現在の東電敷地横を通って神田川に注ぐよう、流路が変更されたことがわかる。
*1 1935年
1941年の地図では十二社通から神田川までの曲がった水路が消失して道路になっており、暗渠化が推定される。
*1 1941年
1999年の道路地図でこの辺りを拡大してみると、この道路が東電敷地に沿って神田川まで続いていて、その曲がった形状から水路を暗渠化したことを裏付ける。
*2 1999年
現地調査
2021年現在、この地域はビル建設敷地となって工事中である。水路がどうなったか現地を歩いてみた。
神田川の西側の遊歩道を淀橋から南に向かって歩いてみると、護岸壁に大きな排水口が開いている。
神田川の南側はビル工事の目隠し塀で囲まれているが、通行人が東電と目隠し塀の切れ目に入ってゆくのを発見。
そちら側に回って見ると、ありました。自転車一台がやっと通れるほどの細い通路が伸びている。
右側は東電の生垣、左側はビル工事目隠し塀に挟まれた細道は曲がっていて、昔の水路に相当することを示す。
路面には暗渠の存在を示すマンホールのふたが列を作って伸びている。
細道の終端。十二社道の新宿スクエアタワー交差点につながっていました。昔の水路が現在まで残り、東京都の下水道となっているので流路上には工事物は建設できず、歩道として維持されていることが確かめられました。
この交差点を北にちょっと歩いたところに石碑が立っています。
昔から当地の首長であり、当時東京府方面参事であった渡辺氏が昭和10年、十二社通の改修に用地の大半を寄付したことが記載され、上記の地図の変化と対応しています。
2.もっと昔は十二社通が自然水路だったのでは?
十二社通はうねうねと曲がった経路をもち、GOOGLE EARTH上で図った標高も周辺に比べて低いことから、ずっと昔には十二社通が自然水路だったのではないかと推定される。
地形およびGOOGLE EARTH標高データから、その推定流路を1911年地図上に示した。
*1 1911年地図に加筆
この図では神田川の流路もくねくねと屈曲していて、昔は水害が多かったと考えられる。水路が神田川と接続する地点も現在の淀橋近傍に伸びた広い地域であったのではないだろうか。
現地に立ってみると、12社通から淀橋あたりの緑地を越えて、さらに低い地域が川下に伸び、栄橋あたりまで合流点がひろがっていたのではないかと考えられる。
淀橋東端から十二社通方面を望む
道路は屈曲し昔の水路を思わせる
淀橋の傍に建てられた江戸名所図会「淀橋水車」銘板には橋が二つ(流路が二本)見えていることから、このあたりの低地を流れる水路は複数存在し、複雑な地形を作っていたことがわかる。
新宿区標識
引用文献 *1 新宿区教育委員会 地図で見る新宿の移り変わり 淀橋大久保編道路地図
地形が町の記憶を呼び覚ます 富久町の街並と自證院と小泉八雲
まるさん食日記https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400 には、
富久町の街並の一部が周りの宅地と異なり変な方向を向いている原因について、古地図に基づき詳細に検討されています。
https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400
結論として「市谷刑務所が斜めの敷地だったから現在の街並みも斜めの区画となっている」と推定し、「実はもっと古い地図が見たいんですけど、まだまだ調べがあまく見つかりませんでした。 江戸時代はここ、なんだったんだろう。」と結ばれています。
☆☆調べたこと: では、なぜ市谷刑務所は斜めの敷地をもっていたのだろう?
1.衛星写真と地図の対比
まず、まるさん食日記に記載の明治時代の地図(A)とGoogle Earthによる衛星からの俯瞰図(B)とを比較。
Aに緑色で描かれた領域がBでは影として対応し、この緑色領域が地形の高低差(崖)であることがわかります。
A B
https://garadanikki.hatenablog.com/entry/20200530/1590836400 Google Earth
2.高低差はなぜできたか?
皆川典久 東京スリバチ地形散歩 (洋泉社2012年)には東京の凹凸地形について面白い知見が満載。
そのp75―85、四谷周辺の谷地形についての解説の中に、紅葉川(現在の靖国通)の谷頭の一つとして饅頭谷低地が挙げられています(図C)。靖国通りと医大通りに挟まれた地域で、実地を見てもはっきり低地であることがわかります。
図Aでは医大通りからさらに北に谷が伸び、北端には池があることから、実際の低地帯は更に広かったと考えられます。
C 皆川典久 東京スリバチ地形散歩 (洋泉社2012年)
現地写真
3.明治時代古地図の地形記述
さらに古い地図を調べました。新宿区教育委員会の編纂による「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編(昭和59年)p184/185の実測東京全図 内務省地理局地誌課、明治11年6月(D)はこの地域が江戸城の外堀から続く水路またはその延長の低地が崖に囲まれた地形であることを示しています。黄色く塗られた広い敷地が自證院の領域でした。明治28年の東京実測図(同書p194/195)(E)ではこの地帯は警視庁用地と記載があります。いずれの図からもこの地域が広く複雑な凹凸地形であったことがわかりました。
D 「地図で見る新宿区の移り変わり」 p184/185
E 「地図で見る新宿区の移り変わり」 p194/195
4. 自證院の変遷
新宿区教育委員会の編纂による「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編(昭和59年)に添付の「牛込四ツ谷淀橋周辺江戸切り絵図」天保14年(F)から、自證院の敷地が広かったことが見て取れます。(地図だけなら新宿歴史博物館で購入可能)
F 「牛込四ツ谷淀橋周辺江戸切り絵図」天保14年
新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」淀橋・大久保編
自證院のご住職のお話によると、江戸時代には自證院の寺域は現在よりもずっと広く、現在の靖国通りに面して山門があり、坂を上ったずっと上に本堂があり、寺域は現在の富久小学校などを含む崖下にまでひろがっていたそうです。
同寺で頂いた「自證院縁起と略歴」によると、尾張大納言徳川光友郷夫人の千代姫の生母ふりの局は三代将軍徳川家光の局の一人で法名自證院殿光山暁桂大姉と号し、当院に葬られるにあたり現在の市谷の地に壱万六百坪の地を賜って本堂が建立された とあります。
現在の東京地図の上にこの地域を当てはめてみたのが図Gです。黄色の線は現在の道路を図Aの道路に対応させたもの。青色は図Aの緑色の崖地に対応、赤色は現在の自證院、点線は江戸時代の自證院の伽藍配置図に基づき寺域を推定したもの。この推定範囲だけでは1万坪には遠く及ばず、この近辺の低地領域ほとんどを取り込む必要があります。
G 昭文社東京都23区シティマップル1999年版 53に加工
従って、
武蔵野台地に刻まれた紅葉川の浸食崖で囲まれた斜め形状の窪み地形がまず存在し、
これが自證院の敷地として永く保存され、明治になってから警視庁用地になった
と考えられます。
江戸時代に谷地形に寺院が建てられ、その敷地が人口増大に伴って宅地化している例が多く見られます。
東京の街が地形の制約を受けながら発展して来た歴史の一端として、本例も興味が持たれます。
5.幕末から明治へ 小泉八雲との関わり
「自證院縁起と略歴」には明治維新によって徳川ゆかりの当寺は敷地の大部分を明治政府に没収されて苦難の時代を迎えた歴史が記されてあり、激動の時代が思いやられます。
また、小泉八雲(ラフカディオヘルン)が自證院の門前に居を構え(成女学院内に石碑が建っている)、自證院の墓地が気に入っていつも散策していたが、木立が切られて小鳥たちも姿を消し、これを悲しんで住所を西大久保に移したことが新宿歴史博物館特別展「小泉八雲―放浪するゴースト」に展示されています。
自證院の住職が小泉八雲と親しく、八雲の葬儀が当院で執り行われたことが「自證院縁起と略歴」に記されています。
☆https://www.kanko-shinjuku.jp/spot/-/article_383.html 自證院 『ウィキペディア(Wikipedia)』
☆https://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E8%87%AA%E8%A8%BC%E9%99%A2 WikipediaWikipedia自証院